西東京市でカフェを営み、当時5店舗を運営していた株式会社にわと蔵の代表取締役 佐藤うららさん。ゴールデンウィークを前に仕入れていた大量の食材を前に、「ご飯一粒も無駄にできない」と動き出します。そこから始まったのが、急きょ立ち上げた“お弁当販売”でした。
地域の人たちの協力を得ながら続けたお弁当づくりは、多くの人の楽しみとなり、人と人とのつながりを生み出していきます。一方で、社会全体が過敏になっていく空気の中で、「これは少し変だよね」と感じ続けていたという佐藤さん。
あの頃、人は何を考え、どう生きていたのか。
そして今も、桜の季節になると思い出すというコロナ禍の日々についてお聞きました。

佐藤うららさんのお話はここからお聞き頂けます(約14分15秒)
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にぎやかな日常が、ずっと続くと思っていた
佐藤うららといいます。飲食店経営をしています。当時は5店舗ほど営業していました。カフェ業態ですね。
お茶を出したり、イベントを企画したり、あとはみんなが集まる場をつくるような仕事をしていました。
どの店舗も賑やかで楽しくて、「こんな日が普通に続いていくんだろうな」と思っていましたね。
少し前からコロナ禍の気配はありましたよね。ニュースでいろいろ言われていましたし。
でも、まさか日本にここまでパンデミックが広がるとは思っていませんでした。
しかも、どこか他人事だったんです。
「自分は大丈夫だろう」という、変な過信がありました。
今思うと、直前まで本当に幸せな日々でしたね。
「明日から入れません」突然の営業停止
確かゴールデンウィーク前だったと思います。
ゴールデンウィークに向けて食材もたくさん仕入れて、仕込みもして、「さあこれから」というタイミングでした。
ところが突然、「明日から館には出入りできません。店舗にも入れません」と言われたんです。
「じゃあ、この食材どうするの?」って。
みんなに食べてもらうために準備したご飯たちをどうするのか、という状態でした。
それで、もう夜逃げみたいに。
「タッパーに詰めて!」「冷凍して!」「運び出して!」って。
いつ終わるか分からない状況になった以上、とにかく現場から持ち出すしかない。
食べ物を誰かが食べられる場所へ“避難させる”。
疎開させる、そんな感覚でした。
「食べ物を無駄にできない」から始まったお弁当
当時、多摩六都科学館の中に「六都なおきち」という店舗があって、そこで準備していた食材でした。
とにかく無駄にはできない。
みんなで運び出して、別の店舗に持っていって、「さて、これをどうする?」という話になりました。
そこで出てきたのが、**「お弁当にしよう」**というアイデアでした。
急な業態転換でしたね。
「もうお弁当を食べてもらうしかない」って。
みんなで知恵を絞って、お弁当を作ることにしました。
今思うと、よくあんなことできたなと思います。
でも、「ご飯一粒も無駄にしてはいけない」という使命みたいなものがありました。
これからは食べ物がすごく大事になる、そんな予感もありましたね。
田無神社のキッチンカーと農協の駐車場で始まった販売
ーお弁当はどこで販売されたんですか?
それが、たまたまなんですけど、田無神社に(弊社の)キッチンカーがありまして。
そこで予約制で販売させてもらいました。
それから、農協さんの駐車場の脇でも販売させていただきました。
そのとき、本当に現場の方たちの対応が早かったんですよ。
「じゃあここでやりましょう」って。
あれは本当に救いでしたね。
手を差し伸べてもらった感じでした。
お弁当がつないだ人との関係
それから私たちは、お弁当を作る生活がしばらく続きました。
「食べてもらう」「元気になってもらう」。
それを何年もやっていたんですよね。
あの時のお弁当のお客様とは、今でもつながっています。
テイクアウトという言葉も、ちょうどあの頃広まってきましたよね。
どれだけ作ったでしょう。
本当にたくさん作りました。
でも、あの時は、お弁当を食べることが一つの楽しみになっていたんじゃないかと思います。
「食べること」が見直された時代
食べ物って、やっぱりすごく大事なツールなんですよね。
「食べることで体ができている自分の命につながっている」ということとか、
「免疫力」とか、
みんなが食のことをすごく気にし始めた時代だったと思います。
もちろん、前から意識していた人もいましたけど。
でも、あの頃は食に対する意識の大きな転換期だったんじゃないかなと思います。
手渡しの一瞬にあった「エール」
予約してお弁当を買いに来てくださるとき、ほんの一瞬なんですけどね。
「お元気で」って。
お弁当を手渡す、その短い時間の中で、
感謝とエールを送り合うような瞬間がありました。
お弁当販売は、本当に面白かったです。
そして楽しかったですね。
人はやっぱり、人に会いたくなる
田無駅の近くに「田無なおきち」という小さなお店をやっているんですけど。
人と人が距離を取らなければいけない時代でも、
やっぱり人恋しくなって来る場所って必要なんだなと思いました。
コミュニティのありがたさですね。
人はやっぱり、支え合って生きているんだなって。
あの時すごく感じました。
「引きこもり最強説」のお客さん
面白いお客さんもいました。
休日は誰とも会わず、家で過ごすのが大好きな女性のお客さんがいて。
「できることなら一生引きこもっていたい」
「部屋の中で完結する生活が幸せ」
という方なんです。
「ニート最強、引きこもり最強」
って言っていて(笑)。
「この生活が続くなら、私一生優勝です」って。
私たちこんなに人に会わないと苦しいんだとか、
そういうものと全然違う立場で生きている人がいるんだということを認めざるを得ない時代が始まったというか、
でもやっぱりそれから内観するとか、
自分が何なのだとか、
生きているって何なのだとか、
そういうことをみんなが考える時代でもあったんだなと思いました。
社会の空気が怖かった
でも、あの頃はちょっと怖い空気もありましたよね。
その時の苦しさというか、陰鬱とした本当に禁酒時代のような
みんなが誰かを取り締まるような雰囲気。
「○○警察」みたいな言葉も出てきて。
あれはちょっと怖かったです。
私もお弁当の動画を撮っていたんですけど、
撮影中にマスクに手を触れてしまい、
「ちょっとここはね、、、使えませんので、撮り直し」ってなって、
「えー!そこまで?」って思いました。
「変だよね」と思う気持ち
あの頃、私はどういう気持ちだったかというと、
「変だよね」って思っていました。
変で、でもちょっと面白い。
過剰で過敏で、少しみんながちょっとおかしいってことに気づいていないことが
おかしいっていうことを、 自分の励ましのようになるべく俯瞰して見ようとしていました。
そうやって精神のバランスを保っていたんだと思います。
今、残しておきたい教訓
残しておきたい教訓は疑うこと。
頭からは信じない。
これは違うでしょっていう気持ちを持つことはすごくだいじだなっていうのは、今でもそう。まさに今そう。
想像し得るでしょうっていう気持ちを皆さんがやっぱり持って欲しいんですよね。
今だから言えますけど、
あの時はやっぱりみんなちょっとおかしかったと思います。
私も含めてですけど。
桜を見ると、思い出すこと
私、桜を見るとすごく辛くなるんですね。あれから毎年。
あの頃、ぽかぽか陽気の日々に、
世の中は厳戒令のあんな状況だったでしょう。
あの時、辛い気持ちの中でも、空を見上げると桜は咲いていたんですよね。
あれから桜をめでる季節のたびに毎年悲しい気持ちを思い出します。
今年もやっぱり桜を見て、あの時の苦しさをあじわうんだろうな、、
人間界で起きていることと、
自然界は全然関係ないんだなって。
桜を見ると、
改めて人間って愚かだなと、桜が教えてくれているように思います。
自分の体が教科書
やっぱり、自分の体が教科書なんだと思います。
体が教えてくれている。
食べることが大事だということ。
やっぱり異物を体に入れない、入れたくない、入れてなるものかという気持ちでいる。
体に入れるものをちゃんと考えること。
それから、
何かわからないものと戦っているような日々だったと、半分はそう思いながら、
半分は、自分が病気で脅かされた経験がないので大変さは知らないまま過ごせたので
とてもラッキーだったとは思うのですが、
そこは飲み込まれない、弾き飛ばせるような強い心持ちでいるっていうことも大事だと思います。
今でもそう思っています。
ありがとうございます。


